てぃーだブログ › 山崎新の沖縄あれこれ

2012年01月17日

1.17。冬晴れの青空に祈る。

小学校6年生だった1995年1月17日朝、東京世田谷の家が大きく揺れた。
気づいたが、それ以上強くもならなかったから、そのまま寝て、朝7時に起床。

テレビでは、よくわからないモヤのかかったヘリからの映像だけが映ってた。
「あの揺れは神戸からだったんだ」
その程度の認識で学校に向い、昼に先生がつけたテレビの映像で、とんでもない
事が起きたと思った。
家に帰ってからも、流れるテレビは激しく燃え盛る町並みばかり。
その後の報道も、崩れ落ちたまちと被災者の疲れ果てた顔ばかりだった。

そんな衝撃から数カ月が経ち、4月を迎え、6年生になった時、私の小学校に、
神戸のまちからS君がやってきた。
いたって明るく、友達なんかとサッカーをやったりしていた覚えがあるS君とは、
1回あいさつをした程度しか覚えがない。たった2クラス、80名もいない学校だったのに。
S君には聞いちゃいけないと思って、震災の事は聞けなかった。
そうすると何を話してよいかわからなかったんだろう。でもずっと覚えてた。

たった1年の付き合いだったS君は、卒業アルバムには載っている。だけど、ホントは
神戸の小学校を卒業したかったはずだ。
でも、そんな彼と私は出会えた。17年前は話す事が出来なかったけども、いつか、
どこかで、仕事やなんかで会えたなら、話をしてみたい。ずっとそう思っている。


昨年の東日本大震災では、多くの子どもが、S君の様に故郷の暮らしを失い、放射能に
追い出された。
故郷に暮らしていても、色々な苦しみや寂しさを抱えていることだろう。
私には理解することのできない悲しみを抱えて、これからも暮らしていかなければならない。

それでも、生きて欲しい。一緒に、この時代をともに生きたい。
私には私の感じた1.17がある。3.11がある。
理解なんてできなくても、ずっと忘れないから。ずっと忘れずに生きていくから。


昨年、「しあわせ運べるように」という、神戸で被災した小学校の音楽教員、
臼井先生の唄と出会った。
歌詞には、神戸への思い、生きることへの素直な思いがつづられていた。
この唄を口ずさみながら、17年目の1.17を、私は噛みしめる。

一.
 地震にも 負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう
 傷ついた神戸を もとの姿にもどそう  支えあう心と明日への希望を胸に

 響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌
 しあわせ運べるように

二.
 地震にも 負けない 強い絆をつくり 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう
 傷ついた神戸を もとの姿にもどそう やさしい春の光のような未来を夢み

 響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌
 しあわせ運べるように

 響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌
 しあわせ運べるように
  

Posted by アセンブリー at 16:22Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2012年01月04日

2012年を見つめ、2012年を生きる

2012年が明けました。
皆さま良い正月を迎えられましたでしょうか?
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2012年。今年は、2012年という時代の背負った課題と向き合い、今まで蓄積してきたことを、
精一杯カタチにする年にします。

【崩壊が始まっている】
今の社会はどんな状況なんだろう。あまり良くない頭で、今までの経験も含めて考えてみました。
現在、日本はかなり深刻な状況にあります。900兆円を超す負債を抱え、国の年間予算の半分
は借金。不景気や高齢化社会を迎え、社会保障への負担も大きくなり、まともな対策が打ち
出せないままギリギリの状況を迎えています。
都市では人口増加が進む反面、地方では人口が減少。今までの当たり前の暮らしが急速に
しぼんでいます。震災や豪雨災害だけが「復興」ではなく、地方はどこも復興しないと
次の時代を迎えられない、そんな危険な状況にあります。

その様な中で、特に「子ども」の問題が深刻なように私は感じています。
私自身もゆとり教育世代ではありますが、今の子どもたちの未発達、未成長ぶりには驚か
されます。先日、知り合いの大学関係者と話をしているときに、「大学が学童クラブ化している」
という言葉が飛び出てきました。
知識だけが詰め込まれ、考える思考が持てず、自分が何者で、今、誰と何を共有している
場面なのかさえ考えられない。考えられないから、改善も何もできないのです。
学校の学びだけでは人は成長しません。成長をするための要素である、地域の大人や
社会への参加の場等が失われたことで、子どもたちは社会を知らずに大人になってきています。
これが一部の子どもたちであればまだ良いですが、おそらくこの様な未成長な子どもが
マジョリティーとなりかけており、さらに、そこに家庭の不安定化や貧困などが追い打ちをかけ、
未成長が当たり前の様な状況が目の前に迫ってきています。
若者の崩壊は社会の崩壊を意味すると私は捉えています。

【毎日を足し算できる希望を】
年初めからネガティブな話になってしまいましたが、私は絶望はしていません。
若者はまだまだ伸びるし、子どもは成長をサポートすれば数年後には成果に結びつきます。

そのために必要なのは、将来への希望だと私は思います。
その希望を手に入れるのは、足し算の考え方で育てるようになる事です。
ダメな所を見つけて減点するのではなく、マイナスは常にゼロとする。そうすると、マイナス部分を直す、できなかった計算ができるようになることは、プラスになります。そのように考え方自体を足し算にすれば、失敗なんか怖くなくなります。
挑戦して失敗して学ぶ事、成功するために考えつくすことは、人を大きく成長させます。
そこに、歳に応じて社会を見せていく。社会と出会い、関わり、挑戦し、答えが出なくても社会を問う。それを繰り返す力の栄養が、足し算で生きる力です。
繰り返す力は、挑戦する希望となります。

西洋史学者で静岡文化芸術大学の学長だった木村尚三郎さんは、90年代に書かれたコラムの中で、日本の少子化の原因は「社会に希望がないからだ」と説きました。
子どもを産まない時代を調べると、その時代には社会が停滞していることがわかる。希望がなければ子どもは生まれない。
逆に子どもが生まれ続けるアフリカは、単に識字率が低いからではない。アフリカや開発途上国には、これから社会が発展するという希望がある。だから子どもが生まれるのだ。日本でベビーブームが起きたのは、識字率ではなく将来への希望が広がったからだ。といった解説でしたが、今の社会を見回すと、とても実感することができます。希望はとても大切であり、家庭や集落、地域、市町村など、自分たち自身が創りだしていかなければいけません。
若者、子どもの中に希望を育てていけば、基地問題も原発問題も、必ず解決できます。
昭和の豊かさというレンズ越しにしか見えない大人たちには見えないことが、若者たちにはきっと見える。
昭和の仕組みという既存の仕組みという手あかにまみれた大人たちには手にすることができない、新しい可能性を、若者たちはきっと掴み取る事ができる。
そうすれば、今の社会を崩壊から救うことができる。私はそう信じています。

【ふりかえれば、未来】
若者をしっかり、足し算の感覚で育て、社会と出会う機会を創りこむ。私にはそこで役立つ知恵を20代のうちに身につけました。
社会の皆さんからたくさんの学びをいただきました。まだまだ未熟ですが、それを活かして取り組んでいきます。
環境問題は「将来も生きる」を柱にして、生活に関わる様々な問題を捉える考え方です。私はそれを今後とも大切にして、
課題解決のカタチを創りこんでいきます。
そのためにも、過去を大切にして、過去を学び、ここ、2012年から、未来を考えていく。
昭和も含め、過去の全てを否定するのではなく、2012年という立ち位置から、しっかり歴史を見つめ、
その時目指したもの、そこで生まれたモノを見定め、未来のために考えを尽くすことが大切です。

「ふりかえれば、未来」この言葉を大切にして、私はここから、未来へ向けて生きていきます。

2012年も、どうぞよろしくお願いいたします。  

Posted by アセンブリー at 18:50Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年11月22日

91年。

明日は、おばあちゃんが迎えるはずだった91回目の誕生日!
先月、長い人生を終えたおばあちゃんのことを、静かに考える。

1920年。 国際連盟が設立され、早稲田と慶応が初の私立大学として認可され、
伝書鳩の飼育が盛ん。大正9年はそんな年だったようだ。

そんな大正時代に東京は亀戸に生まれたおばあちゃんは、昭和の時代を生きてきた。
商人の娘として育ち、商いを支え、家庭の事情で恋をあきらめ、見合いでおじいちゃんと
結婚した。
戦争の中で、1歳にならない長男を亡くし、それでも生活を支え、戦後のジリ貧の中でも
暮らしを守り、子どもを産み、家族のために生きてきた。
詳しくは知らない。母のアルバムにある写真と母の話でしかわからない、おばあちゃんの人生。
昭和の時代は激動の時代。暮らし方も昔が解らないほどに変わった。
そんな昭和の時代を生き抜いたおばあちゃんの人生。すごい人生だったねおばあちゃん。

この10年は、少しずつ老いて認知症も進み、私の事はヘルパーさんだと勘違いする様になって
いたけど、それでも正月に集まれば「ありがたいねぇみんなが集まってくれてびっくりもういつお迎え来ても満足だぁ♪赤」と感謝の言葉を何度も繰り返していた。

5年ほど前にはじいちゃんの墓参りに電車を乗り継いで霊園に行った時、
駅のホームで電車を待ちながら、母から「水分補給しなきゃびっくりはい飲んでびっくり!!
と差し出されたペットボトルを持って、「こんな人様の前で立って飲むなんて失礼なガ-ン」と戸惑い、
ポカリスエットの味に驚き、「この水味がついてるびっくりスッパイ汗」と騒いでいた。
あの時初めて、おばあちゃんから時代を感じた。

孫が結婚してひ孫が産まれ、顔を見せに来ると喜んで、疲れて体調を崩すまで抱き続けていた。
それほど赤ん坊が大好きで、細い手でなでまわし、頬ずりをするおばあちゃんは、満面の笑みを浮かべていた。
私の二人の娘も、抱きしめてもらうことができた。
ひ孫を抱くおばあちゃんを見て、私もそうやって抱きかかえられて育ったんだなぁとしみじみ思った。

亡くなり、棺桶の中に収まっているおばあちゃんと久しぶりの対面をしたとき。
おばあちゃんの「ありがとうね~」という口癖が心に響いた。
おばあちゃんを見送ることで、時代の終わりを感じた。

次の時代は私達が担い、次の世代へ継ぐんだ。そう思った。

おばあちゃんの育った町、おばあちゃんの生きた時代。それは、今の私へとつながる命の道だ。
それを私はもっと知りたい。もっと見つけたい。これからの時代を生きるために。
東京に帰ったら、1度くらいしか降りた事のない亀戸の町を歩きたい。

会えないことがまだ寂しいけど、心の中にはしっかり生きている。

あの世では先立った長男と仲良く、子育てを楽しんでいて欲しいと願う。


今まで本当に、ありがとう。
お誕生日おめでとう。
孫 あらた


(2009年正月 長女とおばあちゃん)  

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2011年11月04日

今年は・・・。

なんてまだ2か月あるのに早すぎるんですが…。

本当に2011年は大災害の年ですね。ガ-ン

・ニュージーランドの地震
・宮崎県新萌岳の噴火
・東日本大震災
・東アフリカの大干ばつ
・台風12号と15号
・タイの大洪水
・トルコの地震

細かいものも含めるともっともっとあるとは思いますが、こんなに人が亡くなったり、
生活の場が失われたり、生産活動が行えなくなったりという事態が起きるとは。

これ以上何かが起きてしまったら、さらに多くの国で貧困や飢餓によって命が
失われることになってしまう。 日本でも表面化するでしょう。

これ以上、何も起こりませんように。
そう願いながら、今暮らしが追い詰められている国の人々の事を考える。

そんなこの頃です。  

Posted by アセンブリー at 11:55Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年10月20日

戦争を細分化すると、一人の人生だった

久しぶりの書籍紹介になります。この夏に読んだのですが、このごろ仕事が忙しかったので、少し寝かせておりましたびっくり

『海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』 一~三
澤地久枝  文春文庫

アジア太平洋戦争のターニングポイントと言われるミッドウェー海戦。
日本側が空母4隻を失い大敗北を喫した戦闘として有名なこの海戦では、日米あわせて3,427名の若い命が失われた。
では、その亡くなった一人ひとりには、どんな人生があったのか。
今から30年ほど前に、遺族にアンケートやインタビューを行い、死んだ男達の人柄や人生、そして遺族の人生を聞き取り、まとめられたのがこの全3巻の本。
直接、日米の遺族に会い、連絡を取り合い、一兵士の存在から戦争を捉えていて、戦争当事者が書いたものとも違う、深みと悲しみが感じられます。

細かい一人ひとりのエピソードについては私は触れませんが、戦争によって生まれた悲しみの深さを、私は思い知らされた。

貧しい農家の出でやむを得ず志願した、召集され、再度召集されて死んでいった男たちもその家族も、家庭の小さな幸せを守ろうと努力していた。みんながみんな「立派に死んで来い!」なんて言ってなかった。
私たちが伝えられてきた戦時中のイメージにはない、生身の人間、家族の絆が、日本もアメリカも関係なく聞き取られ、書きつづられている。
読んでいてとても苦しく、時代だったなんて言葉で簡単に流せない、とても生々しい人の人生を感じさせられた。

また、戦争で死んだ兵士の銃後で、肉親を殺された家族の抱えた膨大な悲しみ、そこから戦後へと続く苦しみがあった。
戦死者を訪ね記すこの本の中には、子どもを失って廃人のようになり、病気になって死んでいった親たちが幾人も出てくる。
戦争犠牲者としては集計されていないだろうが、家族を失って生きる気力がなくなり死んでいった人たちも、紛れもなく戦争犠牲者だ。

この様な犠牲を払ってまで国家間の課題解決の手段として、戦争を選ぶ必要はない。
選ぶならば、それだけの責任を持つべきだ。

私は戦争を手段として選べない。この様な悲しみを強いる行為を、手段として選ぶ勇気はない。
戦争という制度の裏で、小さな一つ一つの家庭の幸せが犠牲になっていく。そのことを受入れること
など私には出来ない。

この本は、戦争によって失われた人の命の重さを、家庭の視点から捉えている。
家族のためにも、戦争を否定しなければいけない。

この本と出会ってよかった。
  

Posted by アセンブリー at 18:30Comments(0)TrackBack(0)書籍紹介

2011年10月07日

子どもの学びに必要なものとは

ご無沙汰しておりますびっくり
この1カ月は本当に忙しかったびっくり

那覇市立識名小学校のジョブシャドウイング(仕事観察)授業の実施があり、10月4日には120名が
受入先の企業の職員さんに張り付き、2時間の仕事観察をさせてもらいました♪赤
120名の受入先との調整、事前学習の実施など学校との調整は、かなりの力が必要で、毎日ハラハラドキドキして働いていましたびっくり
当日は最悪の土砂降りがーん
バスルートは遅れるし大変でしたが、ケガもなく無事に終了おすまし

9月初旬から学校には入り浸っていたので、6年生の子どもたちとも仲良くなりましたが、企業さんから帰ってきた子どもたちはいろんなことを話してくれました♪赤

この、仕事する大人と出会い、働く事を考える社会体験学習を通して、子どもたちはそれぞれの成長をしたように思います。
大人との出会い、観察して気づく体験、知りたいことを質問して答えてもらう体験。
この場で、子どもたちが人と出会う事に慣れ、楽しみを感じるようになったと私は感じましたびっくり

そんな子どもたちを見ていたら、人の成長には、多くの人との関係性が大切なんだなぁと実感しました。

色んな価値観を持った大人と出会い、話をすることで、考え方の多様性に気づき、自分の考えを肯定できるようになる。
出会いを繰り返すことで、偶然の出会いに負担を感じなくなる。
仕事ではもちろん必要な力ですが、それを出会いの中で身に着けられる。子どもには高度な社会性があると解りましたおすまし

今月は数回、学校へ足を運んで、事後学習にも参加させてもらいます♪赤
子どもたちからどんなことを教えてもらえるか、大変楽しみですニコニコ  

Posted by アセンブリー at 17:29Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年09月12日

この社会に生きる。

昨日は9月11日。
アメリカ同時多発テロから10年。 そして東日本大震災から半年。

この10年は、自分の生きる意味を考える10年だった。
自分は何がしたいのか。何が大切なのか。どんな人生の終わりを迎えたいのか。
同時多発テロは、世界の歪みが暴発したように思えた。
そして社会は戦争を支持し、米軍基地のある沖縄は危険と言われ、日本から再び
捨てられた。
その様な中で、成人となった友人達からの電話で問われた
「ねえ、なんで生きているの?」の問い。
まっすぐ生きてきた友人が初めてつまづき、そこから生まれた不安に苦しむ姿。
夢を叶えたのに耐えられない自分を否定する友人の、生きる事まで否定する姿。

それに対し、ただただ話を聞いて、生きていてほしいというメッセージしか伝えられ
なかった私自身の力の無さ。

その心の迷いを、それ以上の悲しみで押しつぶし、「生きるだけで価値がある。」と
教えてくれたのは、御巣鷹山や沖縄の遺骨収集の現場だった。

3月11日。15時23分に届いた「すげーデカい地震だったびっくりすぐ外に避難したから大丈夫。」
というメールの後つながらなくなった、岩手県宮古に住む高校友人。無事を信じた
かったからか、あんなに衝撃的な映像を見ながらも、私は地震の被害を過小評価
し続けていた。

この事態に何ができるのか。ずっと悩んでいたし、今でも何ができているとも思えず、
力の無さは感じる。
でも、私はずっと忘れない。あの日以来、夜ビールを飲むときには目を閉じて祈る様に
なった。いつまでもいつまでも。飲めなくなった人の分まで、味わい、飲める幸せを
大切にしよう。いつもそう思いながら。


1週間前、高校卒業10周年を祝い、初めて同窓会をやった。
「行きたかったけど、二人目が臨月になるから行けないよ~びっくり」とメッセージをくれた、
宮古市の友人には、もうすぐ次男が誕生する。
悩み苦しんだ友人は、夢とは違う仕事をしていたけど、変わらない素敵な笑顔をしていた。
みんな、それぞれの20代を過ごし、この10年を生きてきた。
みんなの人生にお疲れ様を言いたかった。

これからの10年、これからの21世紀も、大変な災害や争いが起きるだろう。
でも、私は生きていく。出会った多くの仲間と一緒に生きていけるよう努力する。


そう心に誓い、昨日は東北へ向かってそっと手を合わせた。  

Posted by アセンブリー at 18:30Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年08月26日

環境教育を考える!in京都

8月2日・3日と、勉強のため京都へ行ってきましたびっくり
3日はセミがにぎやかな朝の川沿いを散歩し、夏の京都を満喫♪赤
この日の京都はそこまで暑くなく、日差しも湿度も沖縄より優しいので、暑くても気持ちよく歩くことができましたニコニコ
川沿いはいいですねびっくり





この日の目的はここ、「京(みやこ)エコロジーセンター」!地球温暖化などの環境情報をまとめたセンターです。
沖縄ではこの様なまとまった環境情報センターがないため、ネットで調べて見つけたこちらをチェックしてみたいと思い、行ってきましたびっくり
雨水利用や地熱冷却、ビオトープなど、施設自体の自然共生型の仕組みをしっかり見えるようにしてあります。特に、しっくいや土壁など、京都の家屋の特徴などをしっかりと捉え、地域の良さとして見せようという意識があります。
展示内容にも、京都市の昔の暮らしを見せる努力が感じられましたおすまし
多少気になったのは、「ゴミを捨てるとこうなるんだ!」という実例を、あまりにもストレートに出しすぎている点。
それだけ危機感があっての事だと思いますが、環境学習で見学する子どもには、罪悪感だけが残る様な気もします。
誰をターゲットにして見せるのかは考え続けなければいけませんねびっくり

1階は展示と学習室、2階はワークショップもできるスペース、3階は実習室や図書室といった内容ですが、驚いたのは図書室♪赤
環境問題に特化して、書籍や雑誌、DVDやビデオなどが揃っています。大量に!というほどではありませんが、公害問題など年代も広く、こういった場所は欲しいなぁと思いましたびっくり

屋上にはビオトープと子どもたちと育てる菜園があり、京都の空にゴーヤが揺れていましたニコニコ

ここでは、環境活動を行うボランティアなどが活動しており、ワークショップなどの場づくりや進め方について学び、実践してスキルアップして、社会に進出していくサイクルがあります。ここが活動するだけでなく、環境意識が高く、それを伝えることのできる人材を育てていることも重要なポイントでしたびっくり
京都で活動する環境系の団体の情報も多く、とても見ていて参考になりましたおすまし

沖縄にも、沖縄の環境問題の資料や情報が集まった場所があったらいいなと感じました。
地域の環境問題を過去にしないためにも、その様な残し方やまとめ方が必要で、そこをどう伝えるかを考えていかなければと思います。  

Posted by アセンブリー at 14:59Comments(0)TrackBack(0)環境問題関係

2011年08月24日

さよなら夏の日~♪

今日は少しひんやりした朝でしたねびっくり
セミの声も静かになり、気づけばもう夏も終わりなんだなぁと、秋の到来を感じましたおすまし

今年は日焼けだけよくした夏でしたニコニコ
平日はバイクで外回りで焼けて、休日は子どもと海で砂遊びして焼けて日の出

最近気づいたのは子どもの大人を見る観察力びっくり
飲食店や洋服屋でのバイトの経験から、レジの会計待ちなど、立って待つときは前に手を組んでいる私。
コンビニで子どもに「しずかに待ってなさいびっくり」と言ったら、
長女も次女も、前に手を組んでじっとおやつにシールを貼ってもらうのを待ってましたニコニコ

という事は、海で知識もないのに生き物を探したり、きれいな貝殻を探す私を見ていたら、
少しは好奇心も高まるのかもしれませんねびっくり
ホントはただ貝拾っているだけなんですけどニコニコ

今週末も瀬長島で水遊びしよう♪赤
山下達郎でも口ずさみながらおすまし
  

Posted by アセンブリー at 18:33Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年08月18日

日本人の戦争観

先日大学の後輩から借りて読んだこの本。

日本人の戦争観~戦後史のなかの変容
著者 吉田裕
発行 岩波現代文庫

アジア太平洋戦争に対する侵略性や天皇の戦争責任について、資料やその当時の社会世論の調査などを照らし合わせながら、しっかり分析された内容で、とても良い内容でした。

アジア太平洋戦争は侵略戦争ではなかったと発言する政治家がいる一方で、戦争に対する加害性を匂わせ、謝罪したように思わせる政府の姿勢。アジア諸国との経済関係を考えると罪を認めたような形で水に流してもらった方が良いが、国内ではまだまだ根強く、侵略性の否定や虐殺に対して否定する議論が消えない。
このダブルスタンダードな流れがどの様にして形成されたのかを、年数単位で区切って分析し、現在までの流れをまとめているところが解りやすいです。

印象深かったのは、東京裁判がアメリカやソ連・ヨーロッパの論理で行われ、戦勝国側が被害を受けたアジアを無視する格好となっていた事。
戦勝国自身が、被害国となったアジア諸国を差別的な視点で捉えていたこと、アメリカ国内の関心が薄くなったことなどが関連していることなども興味深かった。

天皇の戦争責任とアジア太平洋戦争の正当性主張が、戦後の国体護持を優先することで、相反することになっていることも面白い。
アジア太平洋戦争が聖戦だったという理由に、天皇が日本国の将来を考え決断したことだからと答えると、天皇には重大なる戦争責任が生まれる。
天皇に戦争責任は無いという理由に、主に陸軍の独断行動などで戦線を拡大したからと答えると、この戦争は軍部の暴走した侵略戦争だったということになる。


軍務課長などの記録には、天皇が戦術研究などもして、軍の行動に対してかなり指摘をしており、「説明にはかなり苦労する」とある。
戦争も自国の国防のみを考えた侵略戦争であることは明らかだが、その様な状況を「違う!」と言い張る主張が、互いに相反しているとは面白い。

現代までの流れを、丁寧にまとめた1冊。
少し難しくて、1度しか読んでいないと、こんな簡単な説明しかできませんが、
何回か読み返すと、もっとわかることがでてきそうな1冊です。

  

Posted by アセンブリー at 10:00Comments(0)TrackBack(0)書籍紹介

2011年08月15日

終戦記念日をいつまでも

66年目の終戦記念日の一日が暮れようとしている。

今日は仕事が溜まりまくり、走り続けていたため、終戦について考える時間もなかった。
仕事で伺った場所でも終戦記念日の雰囲気はなく、ただ、日常がそこにあった。

66年。
忘れるには充分すぎる時間の中で、終戦記念日は戦没者遺族の日になり始めている。
記憶は風化するが、しかし歴史は風化しない。いつまでも恨みと悲しみと苦しみを含んだ
歴史として存在している。

サッカーにおいて日韓戦には「伝統の一戦、永遠のライバル」という言葉が並ぶが、
そこには主権を奪った元侵略国であり戦争犯罪加害国と被害国の関係がある。
そのことを今の日本人はどれだけ意識するだろうか。

私は日の丸の掲揚も君が代も歌わない。
国旗国歌を歌わないことが、日本人としての誇りの無さではない。
明確な謝罪もしていない国の態度を恥じ、謝罪と追悼の気持ちを込めて、私は国旗や
国歌を持つことを否定する。

国=天皇制を守るための戦争に駆り出され、犬死していった男たち。家族を国家に奪われ、
貧しくても幸せな日常を奪われた銃後の女性たち。

私は時々遺骨収集をしながら、戦争のあった土地としての沖縄を歩きながら、故郷に帰れ
なかった人たちの事を忘れず、いつまでも考えていく。


戦争という時代の波に飲まれて亡くなった全ての方へ気持ちを込めて。  

Posted by アセンブリー at 19:37Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年08月12日

苦しくても、上を向いて歩いていきたい。

日航123便大阪伊丹行のジャンボ機が墜落して、今日で26年が過ぎた。
4半世紀を超えた、昔の事故だと感じるだろうか。

私は当時3歳。記憶にも残っていなかったが、物心つくころに親から話で
聞いて、事故の事は知っていた。
高校2年生だった1999年。全日空機ハイジャック事件が起きた時、ふと
日航ジャンボ機墜落事故の事を思い出し、書店で「日航ジャンボ機墜落」という、
新聞社の事故からの24時間をまとめた文庫本を買って読んだ。
この本を読んで新聞記者に関心を持った私は、大学へ進学し、様々な事を学んだ。

大学4年、今から7年前の今日、たまたま実家にいた私は、何も考えずに群馬県
上野村を目指して車に乗った。

お盆の帰省ラッシュで大渋滞する中央自動車道を進み、長野県佐久から山道を
群馬に超えて、墜落現場の下の駐車場についたのは夕方だった。
駐車場から登山口まで送迎の車に乗せてもらい、山道を歩く。
しばらく進むと、左の斜面は細い桜の木が目立つようになる。

ところどころに立つ位牌と桜の若木を抜けて、墜落地点についたのは18時頃。
晴れた空は西から少しずつ赤く染まりはじめた頃だった。日暮が静かに夏の夕暮れを
響かせる。

慰霊に訪れた方の気持ちが書き込まれた短冊は、19年過ぎても変わらぬ悲しみを
抱えて風に揺れていた。

「・・・。もう、そろそろやなぁ…。」

「そやなぁ・・・。」

沈黙にこもった遺族の寂しさ、辛さに耐えられずに急いで山を下りた。
苦しかった。自分の理解を超えた悲しさが生まれ、今も遺族の気持ちにある。
そのことを思い知らされて、悲しくて走ってその場を去った。



あれから7年。
坂本九さんの上を向いて歩こうが、多くの悲しみに包まれた被災地で、静かに
歌われているという。

どんなに苦しくても、どんなに辛くても、生きていこう。突然の事故で亡くなった
520名の生きたかった気持ちを大切にするために。
7年前の私はそう心に決めた。

今日は静かに口ずさみながら、そっと夜空を見上げたい。  

Posted by アセンブリー at 20:13Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年07月21日

あの時代、今の時代、これからの時代を考える

戦争絶滅へ、人間復活へ―93歳・ジャーナリストの発言
むのたけじ(聞き手 黒岩比佐子)

あの時代はいったいなんだったんだろう。そして今の時代とどうつながっているんだろう。
あの時代とは、戦争へと突き進んでいった昭和のはじめ頃のことだが、今の時代を考えるためにも、あの頃を知っている人はどう今の時代を見ているのかを知りたくて、この本を手に取った。
著者のむのたけじ氏は93歳。朝日新聞の記者として終戦を迎え、自らの戦争責任を取って終戦の日に新聞社を辞めた人だ。その後、秋田県で週刊新聞たいまつを30年間発行し続け、現在もジャーナリストとして活動を続けている。

この本を読んだ感想としては、物足りない、もっと読みたいと思ってしまった。
むのさんの言葉でもっと読んで深く考えたいと感じた。
インタビューをまとめているので仕方ない、というよりも、考えていることが広く深いため、言葉の意味する部分を知りたくもなるし、もっとその部分に重点を置いた考え方を聞きたくなってしまう。

「戦争を止めさせた反戦運動はない」「中国で見た徹底抗戦の意欲」「書けなかった東京大空襲」「すりかえる権力、すりぬける民衆」など、刺激的な話が語られていくから、読むだけでもとても価値がある。だけどもっと読んで、もっと深めたくなる。

そして、結び書きでは、「青年期のしょっぱなにレーニンに恋し、毛沢東に恋した。90歳を過ぎた今も毛沢東を愛し、レーニンに心惹かれている。だから私は両人を裁ける。裁く資格と責任を持つ。」と語り、判決文を言い渡す。
むのたけじという人が、農村の貧しい家に生まれ、社会を知り、昭和の時代を生きてきた。
その中で体験したクーデター、軍国政治、戦争の実態、その後の主体なき高度経済成長から現在に至る状況を見続け、その時代を生きる一人の日本人として考え続け、社会に問い続けてきた。その中で培われてきた考え方を教えてもらえる。
この本はそんな本でした。

「この本には、特別の研究報告も、調査報告もない。速攻の利益や便利は何も提示しておりません。ジャーナリズムを背負った一個人の足跡と波乱に富んだ社会史の鼓動とが結び合った記録です。すらすら読み進むのでなく、曲がり角や要所では立ち止まってほしい。彼はここで三丁目に進んだ。私なら一丁目に行く。といった具合に、あなたの生活のマナイタに本書、すなわちむのたけじを載せて、包丁の背で存分に叩いてもらいたい。こういう叩き読みで学べば、生きるという動詞に真に値する生活力が鍛えられ、高められるのではないか。私はいくら強くたたかれても、痛くなんかない。いっそう嬉しくなるにきまってます。」

昭和を生き抜いたむのたけじという人からの、愛情あふれるメッセージが最後につづられている。

これからの時代を生きる私たちへのバトン、この本はその一つであると思います。  

Posted by アセンブリー at 10:00Comments(0)TrackBack(0)書籍紹介

2011年07月11日

おすすめ映画!「100,000年後の安全」

この映画、とても見たいと思っていたら、今月沖縄で上映が決定しましたびっくり

100,000年後の安全





フィンランドで建設中の、放射性廃棄物処分場を巡ったドキュメンタリー。
10万年後まで安全に放射性廃棄物を保管できるように設計されているけども、
10万年後の人間たちはどの様な言語を使っているのだろうか。

SF映画のようだけど、原子力エネルギーを使い続ける限り問題となる
放射性廃棄物のこれからを捉えた、超現実的なテーマです。


7月20日(水)~7月25日(月) 13:40 / 19:00
パレット市民劇場にて

  

Posted by アセンブリー at 17:51Comments(0)TrackBack(0)ちょっと気になる!

2011年06月23日

昭和世代だから、いつまでも戦後を背負い続けたい。

66年。

沖縄戦が終わって長い時間が過ぎた。人々の暮らしも、まちの風景も、
仕事も娯楽も、全てが大きく変わった。

でも、戦争で身内を失った遺族が受けた悲しみは、薄らいではいかない。

「骨でも帰ってきて欲しい。ずっと探している遺族の気持ちは全然変わってない。」

遺骨収集ボランティアガマフヤーの具志堅さんはそう言って力なく寂しい顔をした。
具志堅さんは昨年末、西原町幸地の陣地壕発掘で見つかった兵隊の遺骨のうち、
遺品から県内出身者と断定できた遺骨に対して、その陣地に配属になっていた
県内出身者の20数名の氏名を探し、新聞で遺族にDNA鑑定のための呼びかけを
行った。

その具志堅さんに、数名の遺族からすぐ電話がかかってきた。
「私の兄はまだ見つかってません。」「うちの父はその部隊所属です。」「夫かもしれない。」
その電話は、もう肉親の遺骨が見つかったかの様な、帰ってきて欲しいという切実な願いで
いっぱいだった。

具志堅さんはいつも、遺骨収集することに悩んでいる。
「DNA鑑定は一致すれば遺骨を遺族に返せるんだけど、でも一致しなかった遺族はさ、
また身内を殺された悲しみをそこで背負わないといけないんだよ。
なんか、遺族には還したいって願ってやっているけど、そんなに傷に塩を塗るようなことを
やり続けるなら、やっちゃいけないんじゃないかって、やるせなくなる。」


沖縄戦から時が過ぎても変わらない悲しみがある。
でも、社会は忘れていこうとする。

沖縄は、日本の国内で唯一の大規模な市街戦があった痕跡を、地形ごと改造していく。
戦前の暮らしも、戦争も無かったかのように。
生活の風景は民俗資料館に、戦争の過去は平和資料館に。やがて戦後という言葉も
消していくのだろう。

だから、私が戦後の世代として、戦争の痕跡があったこと、戦争が大きな悲しみしか
生み出さないことを伝えていく。
私の母親は6人兄弟だが、長男は戦時中生まれ、幼いうちに亡くなった。
小学校の頃住んでいた団地のおじいさんは、左足をびっこひいていた。
戦争で負傷した左足をかばいながら、菜園で野菜を作っては我が家に
くれた。(鹿児島なまりで何言ってるかよく解らなかったが)
10年前桜坂琉映で映画「ホタル」を見て出ると、通路でおばあが若いカップルに
「アンタたちは戦争しちゃだめだよびっくり」と説教していた。

私の育ってきた中に、確かに戦争があった。戦後の中の戦争。
それを私は次世代へ継ぎたい。
それが、戦後生まれの責任であり、昭和最終世代の役割だから。


沖縄戦で亡くなった多くの方のご冥福を祈ります。  

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2011年06月17日

奪い取られたんだから、要求する権利はある。

被爆者は「くれ、くれ」 広島市長が発言、批判も(東京新聞)

広島市の松井一実市長が被爆者と面会した際、被爆者援護に関し「何か権利
要求みたいに『くれ、くれ、くれ』じゃなくて、感謝の気持ちを忘れんようにして
ほしいが、忘れている人がちょっとおる」などと発言していたことが17日、分かった。
 被爆者団体からは「許されない発言だ」などと批判の声が出ている。
 市によると、市役所で16日、被爆体験の手記を書いた被爆者と面会。その際、
市長は「『わしは被爆じゃけぇ、医療費まけてくれ』とか。死んだ人のことを考え
たら簡単に言える話か」などと話した。
 発言について松井市長は17日、「直接被爆者団体に説明した後、市民に説明する。
国には変わらず援護施策の拡大を求めていく」と記者団に述べた。
 広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)の大越和郎事務局長は「広島市が
原爆の被害と被爆者援護を60年以上訴えてきた努力を覆すような許されない発言だ」
と強く批判。「これまで被爆者にこういう見方をした市長はいない。被爆者援護は、
支えてきた市民・国民の合意の上にある。にわかに信じ難い発言だ」と首をかしげた。
(共同)

メアの暴言と同じ様な、信じられない発言。

市長の考えでは、被曝者援護施策は、援護するんだからという上から目線、恵んでいる
感覚なのだろう。障がい者に対する姿勢も同じ態度なのではないか?健常者が社会参加の
場を作ってあげている感覚。 気持ち悪い。

被曝者は安心な暮らしを奪い取られた、想像を超えた痛みを植えつけられた被害者だ。
権利を要求して何が悪いのか。ヘコヘコしている必要などない。
日本人なら礼儀があるというのなら、死ぬまで続く苦しみを与えた方々に、償う誠意を
持ち続けることも、日本人の大切にしてきた誠実さなのではないだろうか。
  

Posted by アセンブリー at 14:18Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年06月16日

改めて、一人の命、一人の意思の大切さを考えたい

福島県相馬市の酪農家の男性が自殺した。
これまで、飯館村の高齢者、須賀川市の農家が自ら命を断った。

どうして彼らは自殺してしまったのか。
彼らを死へ追い込んだのはいったいなんなのか。
改めて、一人の立場で考えて欲しい。

政治家は役に立たないし、経済産業省はそれでも原発を推進しようとしている。
情けないがこの国のトップは世界を敵に回しても、自国の経済を優先しようとしている。

しかし、それを認めているのは我々国民だ。
電気はやっぱり必要だし、手段でいったら原発は・・・。なんて消極的原発推進をしている
裏で、仕事を奪われ、故郷の暮らしを奪われ、家族との日常を奪われた人たちが、
どんなに絶望しているか、どんなにもがきながら生きているのか、なぜ考えられないのか。

皆さんはどうですか?
毎日頑張って働いている仕事。その成果がゼロだったらどうします?
飲食店で一生懸命料理して、作ってはゴミ箱に捨てる。
企画書を一生懸命書いて、仕上げたらシュレッダーにかけられる。
家には帰れない。
辛くないですか?

毎日乳牛の乳を搾っては捨てるその気持ちが、どんなに苦しかったか。

その苦しみを、社会から「でも原発がないと経済が・・・」という言葉で否定される。
これから自殺の連鎖が起きるのではないか。
いや、もう起きているのか。

警察庁の自殺統計で、今年の3月から5月の3ヶ月間の自殺者数を昨年と比較すると、
宮城県では約20%減少、岩手県でも約20%減少している。
しかし、福島県は約9%上昇し、151名の方が自殺している。


原発にかじりつくということは、福島県民の暮らしと生命を無視するということだ。
また、広島・長崎で亡くなった被爆者、原爆症に苦しみながら生きる被爆者、
第五福竜丸やJOC東海村臨界事故で亡くなった方やその遺族の人生を全て
否定することだ。

それを忘れてはいけない。


今、日本人の多くは、募金をすることで自分の責任を被災地に転嫁している。
「日本は一つ。」みたいなスローガンによって、個人の責任を見えなくさせ、
一人の命の大切さをすり替えている。

5月には秋田県大館市立第一中学校で、生徒会企画の義捐金集めに
寄付をしなかった生徒の名前を、教室の黒板に先生が掲示し、寄付を強要した。
教師による恐喝だ。

5月の自殺者は、昨年比18%も増加している。
沖縄は3月~5月の自殺者が前年同期比14%も増加している。。。

改めて、一人ひとりの命、意思、社会的な責任を考えたい。
責任は押し付けるものではない。その人の社会的価値でもある。そのことを考えて、
今、自分達の暮らしを見つめ直したい。  

Posted by アセンブリー at 10:06Comments(0)TrackBack(0)長い長いつぶやき

2011年06月14日

自分を信じる・みんなを信じる・明日を信じる

いのちをつなぐアースハーモニー2011が、大成功で終わったびっくり
「ミツバチの羽音と地球の回転」を取り上げた映画上映会&トークセッションも、
「暮らしから原発を考える」と題して行ったチームSOSの活動報告&ワークショップも、
伝えたいと思っていたことを伝えることができたし、多くの方に足を運んでいただいた。

終わった今、達成感や嬉しさ、これからへの責任と、小さな失敗への後悔がある。

後悔は2日目、SOSさんのトークから参加者を巻き込んだワークへと移行する際に起きた。
参加者の動きが鈍い事で不安が高まり、「私もこの場がどうなるか不安はありますが・・・」と
弱音を吐いてしまったこと。
この場が必要だと自分が考え、メンバーと話し合い設けた場だったのに、その場の緊張感に
自分が負けたダウンがーん
結果的にはとても良い場になったが、自分を信じきらなかったこと、メンバーに任せなかったこと、
そして何より参加者を不安にさせてしまったことは、しっかり反省しなければいけない。
今年のこの状況で、自分達が「暮らし」の切り口から社会へこれからの社会を提起する
プレッシャーに、当日になってかなりビビッてしまった。当日まで気づかなかった自分が
いけないんだけど・・・。もっと腹をくくっていかんとびっくり

そんな中、本当に実感したのは、実行委員会メンバーの、一人ひとりの力であり、気持ち
だった。
緊張を見せず、堂々とした態度で大黒柱を果たしたナナさんとそれを支えるONCメンバー、
裏方として会場をしっかり準備し、様々な手配をこなしてくれたキリ学たくしさん&比嘉さん、
美味しいカレーやトーク、朗読から会場準備まで、作業もいっぱいなのにしっかり雰囲気を
醸し出してくれたありありやま~み~率いるONE LOVEのみんな、前面に出て思いを語り、
アースハーモニーとして沖縄の土に根を張っていることを気づかせてくれた片岡さん一家、
まちぐゎの今を教えてくれるお店担当かわじさん。
本当にみんなで2ヶ月間、たくさん話し合い、それぞれの思いを時には涙を流しながら共有し、
アースハーモニーの中に注ぎ込んだ。
実行委員のみんなを信じること、信じあえることが大切で、みんなで互いを活かしあえる事を
心から実感した。こんな大変な時代のテーマを発信するのは、みんながいないとできなかった。

まだまだ大変な嵐の時代であることに違いない。
気づいた課題の重さはハンパではない。
でも、前に進み続ける。

大変な課題を見据えることは、明日を信じるチカラになる。
頑張ろう。
頑張れる。

私は、こんなに多くの大切な仲間に出会えて来た。
そんな自分を私は信じればいい。そうすれば頑張れる。  

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2011年06月06日

かっこいいなぁ。

3月いっぱいで沖縄大学の業務は終了したのですが、5月から沖縄県のグッジョブおきなわ
推進事業の地区事業を沖縄大学が受託したため、担当コーディネーターとして、変わらず
沖縄大学で仕事をしていますびっくり
大学の直接業務とはまったく関係ないので、外でバタバタしていますびっくり

沖縄大学の加藤彰彦学長にはとてもお世話になっており、尊敬する研究者でもあります。
学生や子どものことを一生懸命考え、傾聴し、向き合う珍しい大学教員です。
そんな先生のスピーチに久しぶりに感動し、かっこいいなぁと思ったので少し長いですが
紹介します。
こんな愛情たっぷりのスピーチができるようになりたいなと思いましたおすまし


===入学式の学長挨拶===
新入生の皆さん、大学院、留学生別科にご入学の皆さん、本日はおめでとうございます。
 私たち沖縄大学の教職員一同、心から皆さんの入学を歓迎し、これからの大学生活を
とても楽しみにしています。
 私たちは本日、この那覇市民会館で入学式を行っておりますが、入学式すら行えない
大学も全国には数多くあります。
 三月十一日に起こった大地震と大津波によって、死者、行方不明者が数万人にも及ぶ
大惨事となり、東北三県の大学や、福島原子力発電所の大事故の影響で関東各県の
大学でも卒業式や入学式が取りやめになっています。
 最高学府である大学の入学式に臨めなかった大学生諸君にとっては、とても残念
だったと思います。
 一方、無事に入学式が行えている私たちにとっても、大学とは何か、学ぶとは、生きる
とは何かについて真剣に考えなければならないと思います。
(中略)

 人間が生きていく上での大きな三つの問題は、病気と貧困と戦争といわれています。
 医療も進み、経済発展も日本はとげてきました。しかし、右肩上がりのエネルギー政策は、
ついに原子力発電所を生み出すところまできてしまいました。日本には何と五四基の
原発があります。
 世界初の原子爆弾による被爆を受けた私たちは放射能の恐ろしさを身にしみて
感じています。しかし、より便利により多くの成長を求めて私たちは、自然界には存在しない
プルトニウムまでつくり出してしまったのです。

 原子力による産業と放射能の危険を早くから訴え続けてきた核化学研究者の
高木仁三郎さんは、一九七五年に東京都立大学をやめ、原子力資料情報室をつくり、
スタッフと共に原子力発電所をなくす活動に全力をあげてこられました。
 全国各地で活動を続け、福島県にも何度も足を運んでいます。
 東京大学原子力核研究所にもおられた高木さんはその後ガンに冒され、体調も悪くなり、
若い人たちを養成するためのプロジェクトを始めることにしました。一九九八年のことです。
 科学者に贈られるライト・ライブリラット賞の賞金を活用して、高木学校をつくり上げたのです。
市民や若者たちのための学校です。

 このイメージは、岩手県花巻につくられた宮沢賢治の羅須地人協会に原点があります。
 宮沢賢治は花巻農学校の教師をやめ、自ら耕作しながら農民と共に学ぶ学校を
つくったのです。宮沢賢治は「農民芸術論網要」の中で次のように書いています。
 職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である

 この職業芸術家を、高木さんは職業科学者と読みかえ、一度亡びねばならぬ
というのです。科学者は市民の暮らしに降りたち、そこで一緒に考え、学び合って
いくことが必要だと考えたのです。
 宮沢賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」と
書きました。農民と一緒に悩み泣き、共鳴するところから始めなければと考えたのです。
 高木さんも原子力や放射能の問題を、地域の方々と語り合い、学びを深めながら
研究を続けていったのです。

経済成長を続ける中で水俣病などの公害が拡大していきます。チッソ工場の水銀
汚染が人間にも被害を及ぼしてきたのです。この水俣に、環境問題を考え研究する
水俣大学をつくる運動が起こります。水俣病発生の現地で研究する大学をつくる
という画期的な試みでした。
 資金や設立手続きの問題で水俣大学の実現はできませんでしたが、当時沖縄大学の
学長であった新崎盛暉先生は、水俣大学を沖縄大学の分校にすれば設立は可能である
という提案をしておられます。
 宮沢賢治の羅須地人協会、高木仁三郎さんの高木学校、そして水俣大学の発想は
「地域に根ざし、地域に学び、地域と共に生きる開かれた大学」をテーマにしてきた
沖縄大学と目指す方向は同じだったといえます。

 高木仁三郎さんの学校は、高木さんの死によって閉鎖されますが、高木さんの主張が
認められていれば、今回の原発事故もなく、原子力には頼らない自然との共存ができて
いたと思います。
 高木さんは「次の世代へつなぐ」という夢があり、そのためには「希望」がキーワード
だと語っていました。そのためには「人と人、人と自然が相互に抑圧的でない社会を
つくること」という思いが高木さんにはありました。
 こうした高木さんの行動を支えたものの一つに、次の言葉があります。
  本気
 本気ですれば
 大抵のことはできる
 本気ですれば
 何でもおもしろい
 本気でしていると
 誰かが助けてくれる

 九〇才を過ぎたジャーナリストのむのたけじという方がいます。戦後、朝日新聞社を
退所し、秋田県横手市で「たいまつ」という週刊新聞を発行してこられました。
そのむのさんが「戦後の日本は経済大国を実現したけれど、それは根っこのないもの
だった」と述べています。更に続けて「会社任せで自分がない。他人のペースで動く
ベルトコンベアの上に完全に自分の生活を乗せたままの繁栄だった。」と述べ、
バブルが弾けて思うようにいかなくなると「社会が悪い、親が悪い、あいつが悪い」と
全部人のせいにしている。自分を見失っているというのです。

 先月、那覇市の松川小学校の卒業式に参加しました。学生諸君がボランティア
として学習支援に参加しており、お世話になっている学校です。卒業する一〇七人の
生徒一人一人が壇上で、自分の将来の夢を語ってくれました。
「保育士になりたいです」「プロサッカー選手になります」「人の役に立つ人に
なりたいです」「小説家になりたい」 どの生徒も瞳を輝かせていました。
 最後に秋田県から派遣されてきていた児玉先生がマイクをもって生徒に向かいました。
 「卒業式の日、最後の授業をしますね。 あなたが一番大切にしている人は誰ですか」
  マイクを向けられた生徒は次々と答えます
 「お父さんとお母さんです」「両親です」「僕の家族です。」
 児玉先生は一呼吸入れて「ほかに」と聞きました。一人の生徒が「自分自身」と答えました。
少し間をおいて先生は言いました。
 「お父さん、お母さんはどんなことがあっても君たちを応援し続けます。何の見返りも求めず
君たちを愛してくれるのです。ではなぜ、親は君たちをそんなに応援してくれるのかな。
それは、君たちが自分自身を大切にして生きてくれるように願っているからなのです。」
 児玉先生はそう言われました。
 考えてみれば、自分と全く同じ人間はこの世の中に二人といないのです。一人ずつ
別々に生まれてきました。その一人ひとりの人間が、しっかりと生きていくことを、両親も
教師たちも願っている。そう児玉先生は言いたかったのだと思います。

 むのたけじさんは、現代の混乱した時代を生きぬくためには、「もう一度、一人、一つ、
一個というところから始めたいと思います。人を変えられるのは、やはり自分で、他人に
よっては変わりません。
 自分で自分を変えようとすれば、少しずつでも違ってきます。それを継続すれば、
まるで生まれ変わったようになる可能性があります。歴史は一人から始まる。自分から
始まるということをもう一度みんなで見つめ直さねばならないのではないか。」と述べています。

 沖縄大学は、日本最南端の大学です。
 また、東アジアに一番近い大学でもあります。第二次世界大戦では、唯一の地上戦を
経験し、四人に一人が亡くなりました。戦争の悲惨さを知った島です。そして、美しい
海と自然に囲まれ、豊かな文化と芸能の島でもあります。
 貧しい暮らしの中でも、お互いが支え合い、美しい水と海、豊かな自然の恵みに
感謝を忘れない島です。沖縄大学は、この沖縄の中にあり、沖縄の文化と歴史を研究する
「地域研究所」もあります。新崎盛暉先生は、著書の中で「沖縄が変われば、日本が
変わり、世界が変わります。逆に、日本や世界が変わらなければ、沖縄だけが
変わることはできないでしょう。沖縄のこれからは、日本のこれからでもあり、世界の
これからでもあるのです。」と書かれています。

 その沖縄で皆さんは、きょうから学ぶことになります。二度と戦争のない社会をつくることを
明言した憲法も、この沖縄で実現できるかどうかが問われています。
 最後になりますが、お忙しい時間をさいて、本日新入生のためにご臨席いただきまして
本当にありがとうございました。
 どうぞ、これからの新入生の歩みをあたたかく、またきびしく見守っていただければと思います。
 では、新入生の皆さん、これからの健闘を祈りつつ、お祝いの言葉といたします。
                    
二〇一一年四月二日
沖縄大学学長 加藤彰彦

  

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2011年05月30日

もう一息!!

少しご無沙汰になってしまいましたびっくり

今週中ごろまで、協議会の開催資料を作成しなければいけないため、
かなりのバタバタ状態になっています汗

この間、
・沖縄戦フィールドワーク「まちの痕跡探し@南風原兼城」
・糸満市の婦人ボランティアサークルへの地球温暖化勉強会
・沖縄市中の町小学校5年生での環境学習

といったこともやってきましたびっくり

少しずつアップしますのでびっくり今しばらくヒミツ


いのちをつなぐアースハーモニーもあと2週間を切りました♪赤
頑張りますよぉ~パンチ!  

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